沖縄平和ツアーの感想(保存版)
日本医労連が6月13日〜15日に開催した「沖縄平和ツアー」に埼玉民医労の組合員が参加しました。
参加した組合員の感想文(ブログ「労働組合って何するところ」より)を紹介します。 埼玉民医労のブログに掲載された記事に、若干の編集を加え、保存版としたものです。
平和ツアー3日間の様子が、実況さながらの緊迫感を持って伝わってくる記事です。 ぜひご覧下さい。
1日目 軍事基地は何のためにあるのか・・・
コース
嘉数高台(普天間基地と慰霊碑、トーチカ、住民が避難したがま)⇒嘉手納基地
沖縄からの参加者のお一人が平和ガイドの金城吉光さんで、いろいろと説明をしてくださいました。
まず、那覇空港に着いた時から自衛隊機らしき機体が何機もあるのが見えて、千歳空港のように軍民共有になっているんだなとわかりましたが、そのすぐそばには米軍基地の一つである那覇軍港があるということを教わりました。実際、バスの中からも軍用車両らしきものやタイヤが積まれているところが見えました。
ガイドの金城さんは、この沖縄平和ツアーの1日目、2日目の目的は基地について知ってもらうことで、「軍事基地は何のためにあるのか」ということをテーマに、事件や事故の面、環境問題という側面、経済的側面、政治的側面、法律的側面から基地を考えていき、最終的にはそれを自分の生き方を考えるための糧として、医療・政治・憲法に対して自分がどのような考えを持つのかを考えてほしいとおっしゃっていました。
まず、普天間基地を臨むことができる嘉数高台に向かう途中、那覇の基地についての説明がありました。那覇には沖縄県内の自衛隊基地の55%が集中しており、陸・海・空の施設がそろっているということでした。那覇軍港は米軍が軍備の修理点検をするための施設で、ここで物資を載せた船がペルシャ湾やインド洋に停泊し、必要とされるところに物資を届けるため待機しているのだそうです。那覇軍港の地代は1坪年間1万8000円で、沖縄で最も高い土地だということです。日本人従業員が約90人働いているということですが、その人達の人件費は思いやり予算として日本政府が支払っているそうです。この思いやり予算には法的根拠はないそうですが、年間総額は2200億円で、これは政府が1年間に削減するとしている社会保障費の額と同額なのです。医療従事者として、これほど納得できない事実はありません!
途中、牧港補給地区というところの横も通ったそうですが、私はメモを取っていたので気がつきませんでした。そこには11の倉庫群があり、各基地におろすための物資や建築資材、軍人の家族のための物資、米軍車両などを保管しているということです。そこの地代は年間1坪4600円だそうです。
嘉数高台(普天間基地や慰霊碑など)
嘉数高台ではバスを降りて見学しました。ここは沖縄戦の戦跡でもあり、第62師団約3万人と住民の50%が死亡したところだということです。京都府出身者の慰霊塔である京都の塔と住民の慰霊塔である嘉数の塔が並んで建てられていました。また、強制労働のために連れて来られて死亡した韓民族の慰霊碑もありました。飛行場の造成や陣地の造営、弾薬の運搬などの従事させられていたということです。トーチカと呼ばれる壕の跡も残っており、この穴から機関銃を撃ったのだというところも教えていただきました。帰りがけに壕の入り口も見ましたが、暗くて狭くて怖そうで、どんなに強要されても入りたくないと思うような入り口でした……
嘉数高台の地球儀の形をした塔に登ると、そこから普天間飛行場を見ることができます。普天間飛行場は宜野湾市のほぼ真ん中に位置し、2km×2.4kmの大きさで、米兵約2600名が駐留しているとのことでした。ここの地代は年間1坪4600円で、年間総額は約65億円となるそうです。その地代は日本政府が支払っています。滑走路は幅45m長さ2800mですが、辺野古に建設予定の滑走路は幅45m長さ1800mで、その長さでも普天間飛行場で使用している機は発着可能なのだそうです。普天間飛行場には格納庫、修理場、管制塔、司令部などの施設があり、その他の宿舎や関連施設(売店や診療所など)と日本人従業員約100名の人件費は思いやり予算から支出されているそうです。
普天間飛行場を使用しているのは艦載機であり、イラクへ派遣されている機がここで訓練をしているのだということでした。 ここで行なわれている訓練とは、ヘリコプターの編隊飛行訓練、無灯火飛行訓練、ホバーリング訓練(プロペラを止めて降下する訓練)などで、周辺住民に難聴や不眠などの騒音被害をもたらしているそうです。また、100ヘルツ以下の低周波音による圧迫感や振動間のために内臓や心臓に悪影響が出、うつ病の原因となることもあるそうです。また、救出訓練のために重油を燃やすことによる煙害も出ているそうです。
2004年8月13日にはCH53ヘリコプターの墜落事件がありましたが、この時墜落現場の沖縄国際大学は米軍によって封鎖され、消防隊や警察、市長、副知事、外務省の役人も入ることができなかったそうです。地位協定では、基地外の事件の捜査については日本の警察と共に行なうことになっているのですが、特別法というもので米軍の財産を捜査する際には日本の裁判所が米軍の責任者に委託をすることになっており、日本の警察が捜査するには米軍高官の許可が必要になるということになっているそうです。また、このCH53ヘリコプターにはストロンチウム90という体内に入ると大変危険な放射性物質が使用されているのですが、その一部が発見されなかったということです。
宜野湾市は普天間飛行場とキャンプ瑞慶覧があり、市の33%が基地に占められています。そのため、東京都よりも人口密度が高くなってしまっています。市の歳入の3.8%に当たる9億円が基地関連収入となっています。米軍再編による基地の返還は移設が条件となっており、基地移転による経済効果が見込めますが、基地に頼らない市の経済的自立が必要です。
キャンプ瑞慶覧は移動中のバスの中から見ました。海兵隊の本拠地ということで、米兵とその家族のための住宅や商店、学校、200床の海軍病院などがありました。以前、神奈川の基地見学に行った時は米軍住宅は森に隠されて全く見えなかったのですが、こちらの米軍住宅は一般道路からよく見えるのが意外でした。しかし、やはりここでも多額の思いやり予算が使われており、住宅は1戸4500万円かけて造られ、光熱費も不要なので、米兵と家族が本国に一時帰国する際もクーラーを入れたままで帰るのだそうです。
嘉手納基地
次の見学地は嘉手納飛行場でした。嘉手納基地にはメインゲートを入ってすぐにゴルフ場があり、家族住宅、燃料庫、飛行場、海軍施設などがあり、米兵7000人が駐留し、家族も合わせると2万人になるそうです。人口密度は1000人ほどです。一方、嘉手納市は人口1万3000人で、市の83%が基地となっているため、人口密度は4800人〜5000人ほどで、大阪府に匹敵するそうです。市の歳入の104億円のうち19億円、17%が基地関連収入であり、経済的自立は宜野湾市よりも難しくなっています。ちなみに、各市町村の基地関連収入も日本政府が支払っているものですが、沖縄全体で5500億円に上り、日本全体では6000億円とのことでした。
20分くらいの見学の間に離発着は3機ほどで、神奈川県の厚木基地ほど頻繁ではないという印象でした。それにかなり遠くに飛んでいたので、厚木基地での心臓が痛くなるような振動は感じませんでした。滑走路は幅91m長さ3600mと規模が大きく、海軍機が配備され、空中給油が可能な機だとのことでした。嘉手内飛行場の管制塔は担当区域の全ての飛行機を民間機も含めて管制しており、この区域では民間機は低く飛ばなければならないということでした。この飛行場の格納庫は1機4億円掛かり、その中の15機分は思いやり予算で作られているそうです。事故は民間人を巻き添えにした墜落事故も起きており、嘉手納基地所属の米兵が起こした事件はスナック強盗事件や婦女暴行事件などがありますが、いずれも基地に逃げ込んで禁足処分になっており、その後本国に逃れているとのことでした。ジェット機の燃料もれによる環境破壊やPCGもれなども起こしているそうです。以前は基地使用の契約を拒否する反戦地主が3000人いましたが、知事の代理署名を大田知事が拒否したことをきっかけに建設大臣の許可で契約が可能になってしまい、現在は15人に減ってしまっているとのことでした。
また、嘉手納飛行場の周辺の住民が爆音訴訟を提訴し、夜7時から翌朝7時までの飛行の差し止めや損害賠償を求めましたが、1982年の第一回訴訟は日本政府には差し止め権限はないと却下され、2000年に始まった第二回訴訟では高裁でうるささ指数85以上の地域の住民を保障の対象として日本政府が26年の保障を行なうべきという判決が出ましたが、現在控訴中とのことです。
基地の中に畑があることに気づいた人もいましたが、それは黙認耕作ということでパスポートで出入りして耕作することが可能になっており、その分地代は安く支払われているとのことです。
見学を終え、ホテルまでの車中では米軍基地の成り立ちについての説明がありました。1945年4月1日の米軍上陸から基地の造営が始まり、その後占領状態が続いていましたが、1952年にサンフランシスコ条約で日本の主権が認められたと共に日米安保条約が締結され、米軍と沖縄の首席(今の知事のような存在)が20年の契約を結んで基地が維持されることになりました。1972年の本土復帰の際に5年間契約が引き伸ばされ、1977年の地籍明確法、1982年の米軍特措法、土地収用法で引き伸ばされてきたということでした。そのため、住んでいた土地に戻れない人達が沢山いるのです。このことを金城さんは、「63年間沖縄では戦争難民状態が続いている」と表現なさっていました。
2日目 辺野古「命を守る会」と交流
コース
辺野古「命を守る会」を訪問 ⇒ 船で「V字滑走路」建設予定地息を海上視察 ⇒ 沖縄県医労連と交流
辺野古へ向かうバスの中では、昨日に引き続き平和ガイドとして参加してくださっている金城さんが普天間飛行場移設についての経緯をお話してくださいました。まず、1995年9月4日の少女暴行事件をきっかけに基地反対の運動が高まり、1995年10月の県民集会は沖縄本島で8万5000人、宮古島で3000人、伊江島で3000人が集まる大規模なものとなりました。1996年4月12日、当時の橋本首相とモンデール駐米大使が共同会見を行ない、普天間基地の全面返還が発表されたのですが、それは県内移設を条件とした不十分なものでした。1996年12月には飛行場を沖縄本島東海岸に移設し、砲撃演習は本土へ移転するという方針が出されましたが、その費用は全て思いやり予算として日本政府がまかなうというものでした。1997年1月には候補地として辺野古が表明され、新たな基地建設を許さない住民の基地反対運動が始まりました。同年2月には命を守る会が結成され、ボーリング調査の阻止座り込み行動が開始されました。辺野古移設の当初の計画は、撤去可能なヘリポートを建設するというものでしたが、その大きさは幅500〜600m長さ1500mにも及ぶもので、建設費用は5000億円〜1兆円と言われていました。同年12月21日には辺野古がある名護市で基地建設をめぐる市民投票が行なわれ、市民4万8000人中4万1000人、82%が投票しました。結果、反対と条件付反対を合わせた票数が賛成と条件付賛成を合わせた票数を2000票上回りました。しかし、市長が投票の3日後に辞任し、市長選挙では基地賛成派の候補者が当選し、続く県知事選挙でも基地賛成派の候補者が当選しました。現在は、キャンプシュワブ沖を埋め立ててV字型滑走路を建設する計画が立てられ、環境影響調査が行なわれています。
途中、バスはキャンプハンセンの脇を通過し、その際にここでは山を標的とした高速道路越えの実弾演習が行なわれていたという説明もありました。
辺野古「命を守る会」との交流
辺野古では命を守る会の具志堅さんが説明をしてくださいました。海岸近くに会のテントが張られ、のぼり旗が立てられていて、テントの中には反対運動についての写真が展示されていました。
具志堅さんの説明では、命を守る会の活動は平和を守る取り組みという点では宗教者が宗派を超えて協力し、自然を守る取り組みという点では環境保護団体が結集するという形で、様々な団体が垣根を越えて集まれる場所になっているということでした。命を守る会の活動は最初はボーリング調査を阻止する座り込みが始まりでしたが、現在はV字滑走路建設のために海上保安庁が米軍と協力して環境アセスメント(環境影響調査)を行なっており、今日も6隻の調査船が出ていて、命を守る会ではその調査の監視を行なっているとのことでした。この滑走路は戦闘用減りのMV22オスプレイが配備される予定になっているそうです。また、米国防省に対してジュゴン裁判というジュゴンの生息域を守る裁判も起こしており、これはアメリカの法律に基づいたもので、米国内では希少動物の生息域であることを理由に約300箇所の基地が撤退しているということでした。ジュゴンだけでなく、辺野古の弾薬庫周辺の海は6種類のクマノミの生息地になっており、サンゴ礁も豊かです。基地が建設されればそれらが全て生存不可能になってしまう恐れがあるそうです。
テントから砂浜の方へ移動し、米軍基地と一般の土地の境目になっている鉄条網を見学しました。これは以前は普通の鉄条網だったそうですが、現在はカミソリ様の歯がついている形になっています。鉄条網には沢山の布が結び付けられていて、遠目に見るときれいな飾りのようでした。この鉄条網は台風などでよく壊れ、その度に米兵が修理しに来るそうです。また、この砂浜では米軍の上陸・撤退訓練が行なわれ、水陸両用戦車の上陸場所にもなっているとのことでした。ここでの訓練が活発になると米軍の軍事行動が近いことがわかるのだそうです。また、基地内には沖縄の古代遺跡もあり、文化財調査が基地内で行なわれているそうです。
大浦湾 V字滑走路建設予定地を海上視察
再びバスに乗り、船に乗るために大浦湾に移動しました。その途中、金城さんからキャンプシュワブについての説明がありました。キャンプシュワブは海兵隊の宿営地であり、機関銃訓練や砲撃訓練が行なわれ、イグルー式弾薬庫もあり、沖縄復帰前は核兵器や毒ガスも保管されていたとのことです。現在は撤去されていることになっていますが、基地内は治外法権で調査することはできないため、実際に撤去されたかどうかは確認されていないそうです。米兵3000名が配置され、イラクなどに派遣するための訓練を2〜3年行なっているということです。このキャンプシュワブの沖にV字滑走路を建設する予定になっているのですが、そのためには200平方kmの埋め立てが必要で、深さもありますので1900立方kmの土砂が必要になるそうです。
大浦湾では東恩納さんという方が説明をしてくださいました。この方はジュゴン裁判の原告となっているそうです。船は13人定員の小型船ですので、2班に分かれて見学しました。私は後半の班になり、待っている間にカヌー体験が可能だったのですが、風邪がまだ治りきっていないので遠慮して、貝殻のストラップ作りをやっていました。(貝殻に穴を開けるのがなかなか大変で、真剣にやっていたらもう少しで船に置いていかれるところでした……)
裸足になって救命胴衣をつけ、波打ち際から海に入って乗船しました。船は真ん中がガラス張りになっていて海底が見えるようになっていて、そこからサンゴ礁を泳ぐきれいな魚達を見ることができました。V字型滑走路建設予定の海上に向かう途中にキャンプシュワブの弾薬庫の一部(本体は地下)や米軍宿舎を見ることができました。砂浜では米兵らしき人達がばバレーボールに興じているのが見えました。このキャンプの米兵は主に18〜19歳の新兵で、ヒスパニックアジア系が多く、ここで2〜3年いれば市民権が得られるということで、逮捕か入隊か選べと言われて入隊した人達もいるそうです。滑走路予定地は水深が深く、滑走路ができればそのまま軍港としても使用される可能性があるということでした。しかし、ここではジュゴンが目撃されており、建設予定が持ち上がった当初はフィリピンから回遊してきていると思われていましたが、途中に当たる台湾などでは発見されておらず、通年して目撃されていることから、辺野古が固定の生息域であると見なされるようになったそうです。滑走路の2010年の完成が目指されているそうですが、ジュゴン裁判がたたかわれていますし、沖縄の遺跡の発掘も5〜6年掛かる見込みがあり、また、埋め立てには県知事の許可が必要で、環境影響調査が終了したとしても、その時点での知事が建設に反対なら実施できないということです。なので、基地反対運動は政治的な運動にもなっています。東恩納さんは、後10年がんばって辺野古をジュゴンの保護地区にし、返還されたらキャンプシュワブは国民休暇村にしたいとおっしゃっていました。
浜に戻り、市役所で足を洗わせてもらってからバスに再び乗り込み、今日泊まる那覇市のホテルに向かいました。その間に、平和ガイドの金城さんから米軍再編などについてのお話がありました。米軍再編は「パッケージ」と言われており、普天間、嘉手納、キャンプキンザーの返還が移設とセットにされています。普天間は鹿児島へ、嘉手納は北海道の千歳、茨城県の百里、石川県の小松、福岡県の築城、宮崎県新田原などへの移設が計画されています。また、岩国への空母艦載機の訓練場移転、横田への航空自衛隊司令部の移転、沖縄那覇空港から嘉手納飛行場への自衛隊移転など、米軍と自衛隊の一体化が計られていると思われる一方、自衛隊単独で戦争ができるようにすることを目指しているという見方もあるそうです。
また、沖縄での米軍の犯罪・事故についての説明もありました。米兵が犯した犯罪は1972年の沖縄返還後34年間で約5000件にのぼり、60%は窃盗、17%は暴行・脅迫、10%は殺人や婦女暴行などの凶悪犯罪だということでした。航空事故は1972年から2005年の間に391件あり、その70%が不時着、10%が墜落、9%がヘルメットやヘリの扉などの落下だということでした。墜落は年間に1.2件ある計算になり、その80%が航空機、20%がヘリだということでした。金城さんは、軍事基地とは人を殺すための拠点であり、米兵が容易に犯罪を犯すのは日々の訓練の中で相手を人権のある存在として認識する感覚を眠らされているからではないかとおっしゃっていました。
3日目 南部戦跡めぐり
コース
南風原陸軍病院跡⇒糸数壕(アブチラガマ) ⇒ ひめゆり平和祈念資料館 ⇒ 摩文仁の丘・沖縄県平和祈念資料館 ⇒ 魂魄の塔
この日は8時半にホテルを出発し、ほぼ1日戦跡めぐりでした。バスの中で平和ガイドの金城さんから、戦跡を見学する時は住民の側からの視点、武器を持たない人達からの視点と、軍隊の側からの視点、傷ついた兵隊や軍属としての医療人の視点を意識して見学してほしいとのお話しがありました。
大浦湾 V字滑走路建設予定地を海上視察
最初は南風原(はえばる)陸軍病院跡を見学しました。ここは沖縄陸軍病院が移転してきた壕で、熊本で結成されて那覇へ移ってきた沖縄陸軍病院は、最初は内科と伝染病科でしたが、後に外科が中心となり、内科は第二外科、伝染病科は第三外科に変更されたそうです。1944年10月10日の那覇空襲で那覇市の90%が焼失し、死者は668名、負傷者は758名にのぼりました。沖縄陸軍病院も空襲のため南風原国民学校へ移転し、その後周辺に30程の壕を掘ってそちらに移転しました。約4000名の患者を348名のスタッフが看護していましたが、その中にひめゆり学徒隊222名と教師18名も看護助手として加わっていました。ひめゆり学徒隊の主な仕事は、麻酔なしの手術をする時に患者を押さえていることや、食事の世話、大便処理、包帯交換などでした。1945年4月の嘉数の戦闘で62師団の約8割の兵が死亡し、5月22日には首里城司令部から南部への撤退の指示が出され、病院も閉鎖されました。情報漏れの警戒から捕虜になることは禁止されており、歩けない重傷者は手榴弾を渡されて自決を命ぜられたり、青酸カリ入りのミルクを飲まされて殺されたりしたということです。これは医療従事者が患者を殺したという、あってはならないことです。軍医の中には患者を殺すことはできず、命令に従わずに青酸カリを埋めさせた人もいたということです。
南風原陸軍病院跡で現在見学が可能なのは20号壕のみで、他は落盤のため入れなくなっているそうです。碑文がある丘を登って林を抜けたところに壕の入り口があり、受付でヘルメットと懐中電灯を借りて中に入りました。鍵が掛かる入り口が付けられていて、見学用に整備されているところという印象を受けましたが、内部は落
盤の危険があるところに補修をしている他は当時のままだということです。入り口近くにはまず、埋められていた医薬品の瓶などが展示されていました。そこまでは外からの明かりでものが見えましたが、そこから先は懐中電灯の明かりだけが頼りの闇の中に入っていきます。人工的に掘られた壕ですので大きさは一定で、幅約1.8m高さ約2mで、全長はほぼ70mとのことです。この壕は患者の病室として使われており、その狭い空間に二段ベッドを並べ、上は重症患者、下は軽症患者と分けていたそうです。他の壕との通路で広くなっているところは手術場として使われ、通路は女子学生達の休息所となっていたそうです。19号壕は上官用の病棟だったそうですが、落盤で塞がれていました。通路は上向きになっていたので、少し高いところに掘られていたのだと思います。壁が黒くなっているところは米軍の火炎放射器で焼かれた跡で、焼け残った杭木も所々にありました。朝鮮人兵士が刻んだと思われる「姜」という字が壁にあったそうですが、崩落の危険があるということでライトを当てることができず、見えませんでした。全体的に息苦しく、最初に入った時はひんやりしているように感じましたが進むうちに暑く感じるようになってきてました。当時はここにすさまじい悪臭が加わっていた訳ですから、普通の神経では堪えられない状況だったろうと思いました。
糸数壕(アブチラガマ)
次は糸数壕、アブチラガマに向かいました。壕は人工的に掘られたものですがガマは自然の洞穴で、そこに少し手を加えて兵舎としたそうです。1945年3月から糸数の住民539名中約200名がこのガマに避難してきていましたが、4月下旬から南風原陸軍病院が移転し、約600名の患者と軍医3名、看護師3名、ひめゆり学徒隊16名が移動してきました。しかし、5月25日には撤退命令が出て歩けない患者百数十名と住民が置き去りにされました。6月から米軍の包囲と攻撃が始まり、黄燐弾による攻撃、空気穴からのガソリン抽入、出入り口の封鎖などが行なわれたそうです。生き残ったのは負傷兵9名と住民約50名だけだったとのことです。後年、約150名分の遺骨がここから収集されたそうです。
ここでも受付でヘルメットを借り、持参した軍手をつけて懐中電灯を持って中に入りました。ここはあまり整備されておらず、入り口に手すりはありましたが階段は急で滑りやすそうでした。もちろん中は懐中電灯以外の光源はありません。こうして団体で入るならともかく、個人の観光では危険すぎて入れないでしょう。入ってみると中は涼しく、自然洞穴なので天井は高く足元はでこぼこしていて、常に上から水滴が落ちてくるのが感じられました。いくつか空気穴も開いているそうで、広いこともあって南風原のように息苦しい感じはしませんでした。
入り口から入ってすぐは病棟だったところで、そこから右に進むと脳症患者と破傷風患者を隔離した区域だったところで、左に進むと狭い通路があり、そこを更に奥へ向かいました。途中、ここで亡くなった方の歯が残されているのをガイドの金城さんが教えてくださいました。歯の形はわかりましたが、それが戦争で亡くなった方のものだとは、この時点ではなかなか実感が湧きませんでした。少し進むと、通路よりも少し高くなっているところがあり、そこは軍医室(この立て札は割れてしまっていました)と治療場所で、麻酔無し手術を行なったところです。通路よりも低くなっているところは看護婦の詰め所と病棟、その奥が遺体安置所となっていたそうです。ここで一度懐中電灯を全て消し、全く光源のない暗闇を体験しました。何も見えない状態でかえって目が痛くなり、目を閉じていないと堪えられないように感じました。再び懐中電灯をつけて、ガイドの金城さんが持ってきた証言集の中からひめゆり学徒隊として治療にあたった方の証言を参加者の一人が朗読しました。奇声を発して暴れる脳症患者、手足が痙攣し、口を開くこともできなくなる破傷風患者、傷口に蛆虫がわく負傷患者といった、悲惨な状況が語られました。(ひめゆり平和祈念資料館で証言を閲覧することができます。沖縄へいらっしゃる機会がある方はそちらでお読みになることをお勧めします)
通路に戻って少し進むとカマドの跡がありました。これは一部修復されたものだそうです。煙がこもってしまうのでここで調理するようになったのは主に米軍の包囲後のことだそうです。通路の反対側には井戸と地下水脈があるそうですが、かなり低いところなので懐中電灯の明かりだけではよく見えませんでした。少し通路進むとまた広くなっているところに出ました。ここは病棟だったところで、ガイドの金城さんが天井に爆風で飛ばされたトタンが突き刺さっているのを教えてくださいました。その先が2階建ての兵舎がつくられていたところだそうです。慰安婦も連れてこられていたということです。最後の、反対側の出口に最も近く、穴が開いていて外から発見される恐れが最も大きいところが住民の避難場所だったそうです。思ったよりも狭い空間で、ここに200名ではまさに鮨詰め状態だったろうと思いました。
出口の階段は一気に上り、上り終えた時には息が切れていました。あまり自覚していませんでしたが、やはり怖くて早く出たいという気持ちが働いたのだろうと思います。外に出た時は正直ほっとして、、今日の行程で一番大変なところが終わったと思いました。
出口の近くには石碑があり、千羽鶴などが供えられていました。その後ろには岩の割れ目があって、その中がガマだということなので、恐らく住民の避難場所の辺りなのだろうと思いました。
南風原陸軍病院壕・糸数壕(アブチラガマ)を訪問して
南風原陸軍病院の壕に入った後では、アブチラガマの方が天井は高いし広いし空気も悪くないので数倍マシという印象でしたが、この場所に約600名の患者が収容
され、軍人も民間人もひしめき合っていた状況というのがどれほどのものだったかということは、なかなか想像力の追いつくことではありません。それを補うためには、平和ガイドの方のお話を聴いたり、当時を知る人の証言を読んだりすることが合わせて必要だと思いました。
ひめゆり平和祈念資料館
昼食休憩の後、ひめゆり平和祈念資料館を見学しました。ここは、ひめゆり学徒隊がアブチラガマからの撤退後に入った伊原第三外科壕の跡に建てられている資料館です。ここではもう医療活動はほとんど行なわれておらず、ひめゆり学徒隊の仕事は伝令や水汲み、食料探しといった労働だったそうです。1945年6月18日には解散命令が出され、翌19日から壕は米軍の攻撃を受け、壕にいた96名中85名が亡くなったそうです。生き残ったのはひめゆり学徒隊の5名、看護師5名、民間人1名だということでした。けれど、壕に入れたひめゆり学徒隊はまだいい方で、沖縄では450名の女学生達が動員されていましたが、戦闘員ではないからと壕に入れてもらえずに亡くなった人が沢山いたそうです。
資料館では、戦争に協力させるために教育が変質させられていった歴史、看護要員として動員された女学生達が使っていた医療器具や個人の持ち物などが展示されていました。そして、生き残った人達の証言と沖縄戦の記録フィルムを上映しているコーナーがあり、私はそこにかなりの時間留まってしまい、時間が足りなくなって伊原第三外科壕を実物大で再現したジオラマや証言集はじっくり見ることができませんでした。個人で再訪する機会があればもっと時間を取って見学したいと思います。
摩文仁の丘(平和祈念公園)
次に訪れたのは摩文仁の平和祈念公園で、ここではまず韓国人慰霊塔に向かいました。この塔は強制徴用されて沖縄で死亡した(日本兵による虐殺も含む)1万人余の韓国人の慰霊のために建てられたものなのですが、ここには遺骨は納められていないそうです。空港、陣地、壕などの造成のためにや、弾薬運びなどの危険な仕事のために動員され、一般の兵士として戦闘に参加した人もいたそうです。強制徴用された韓国人は全体では70万〜200万人と言われていますが、名簿が公開されていないので正確なことはわからないそうです。韓国からは女性も挺身隊として看護助手をすると偽って連れて来られ、多くは慰安婦とされたそうです。沖縄にはのべ132箇所の慰安所があり、約1000人の韓国人慰安婦がいたそうで、これは全体の3割に当たるということです。慰安婦とされた人達は生き残っても差別を受け、故郷に戻れずに孤独死した方もいたそうです。
沖縄県平和祈念資料館
次に、沖縄県平和祈念資料館を見学しました。この資料館は大田昌秀県知事の時代に約73億円をかけて建設されたものだそうで、立派な建物で展示も充実していました。まず、入館すると通路の一角に床がガラス張りになっている部分があり、沖縄戦で用いられた砲弾を見ることができます。それらは地中から掘り出されたものなので、それを再現するべく掘り出された状態での展示となっていました。主な展示は2階で、まずは琉球王国が薩摩藩に植民地化されたところから始まる歴史について展示されていました。琉球の日本化は「皇民化政策」と呼ばれ、天皇尊重と琉球文化の否定が徹底されました。それを背景に、沖縄での地上戦準備のために県民が根こそぎ動員され、実際に戦闘が始まると民間人も含めて20数万人が犠牲となりました。昼食休憩の際立ち寄った売店で購入した「戦後沖縄のキーワード」(松田米雄著 ゆい出版)によりますと、沖縄戦での日本軍の死者は9万4136人、民間人の死者は約14万人にのぼったそうです。軍人よりも民間人の死者が多いのは、本土決戦までの時間稼ぎのために民間人が避難していた壕を軍が強制徴用し、逃げ場所を失った人達が多く命を落としたからだそうです。
第2展示室では沖縄戦の経緯を詳しく説明するフィルムが上映されていて、私はまたここで多くの時間を費やしてしまいました。ですが、フィルムを見たことで、日本軍が撤退していた沖縄県北部では5月中には戦闘がほぼ終了して多くの住民の命が助かったこと(山に逃げたため、マラリアの被害はあったそうですが)、逆に日本軍が留まった県中部、南部では長く戦闘が続いて住民からも多くの死者が出たことがわかりました。
第3展示室では、ガマが実物大のジオラマで再現されていました。ガマに入ってすぐのところには避難住民と彼らを監視する日本兵の姿がありました。パンフレットの説明では「子どもの泣き声がもれないように口を押さえる母親」となっていますが、実際には鼻も塞がれており、窒息死させようとしている場面なのです。また、日本兵は視線を外に向け、銃剣も斜め上に向けた姿で立っていますが、大田知事の頃には日本兵の視線も銃剣も住民の方に向けられていたそうです。その次には、負傷兵を手当てしている横で、兵士が青酸カリ入りの水を作っている姿が再現されていました。次は、投降を呼びかける米軍のビラを拾おうとしている子どもを親が止めている場面。このビラを拾った者は殺すと日本兵に言い渡されていたそうです。また、戦争で亡くなった人達の写真や、火炎放射器で焼かれた着物などが展示されていました。ここへ来て、ようやく私はアブチラガマの悲惨さをいくらかは想像できたように感じました。その意味でも、この展示はとても貴重なものだと思います。もちろん、ガイドの金城さんの説明があったからこそ、展示と実際に見たガマを結び付けられたのですが。行程の一つ一つがつながっていて、必要なものだったのだなと思いました。
第4展示室には沖縄戦についての証言集を置かれていました。一部しか読むことができませんでしたが、避難場所を日本兵に追い出された住民の証言や、動員された学生の証言などがありました。第5展示室は戦後の沖縄についてでしたが、ここも時間が足りなくてじっくり見ることはできませんでした。ここも是非再訪したいと思います。ちなみに、最後の写真は1995年の少女暴行事件に抗議して8万5千人が集まった県民集会のものでした。
平和祈念資料館を出た後、同じ平和祈念公園内にある平和の礎に向かいました。これは沖縄戦で亡くなった人達の名前が刻まれている石碑で、約24万600名にのぼるそうです。沖縄県民が14万6900名、県外出身者が約7万6800名、アメリカ人1万4008名、韓国人341名、イギリス人82名、北朝鮮人82名、台湾人28名とのことです。(平成17年のデータです) ガイドの金城さんが石碑の名前を示しながら集団自決で亡くなった方について話してくださいました。ある人は夜中に軍隊の命令で山に集められ、家族を手にかけたと証言しているそうです。その後、自分達は米軍に一矢報いてから死のうと山を下りたのですが、途中で日本兵が食事をとっているところに出くわし、その近くに民間人もいることを知って愕然としたということです。また、ある村では村の責任者が軍から集団自決の命令を受けたのを聞いたと家族が証言しているそうです。軍が集団自決に関与したことを教科書から削除しようとする動きがありましたが、軍の関与を裏付ける証言は確実にあるのです。
魂魄の塔
最後に、米須にある魂魄の塔を訪れました。米須は捕虜収容所となっていた地域で早くから住民の出入りが可能となり、戦後まもなく金城和信村長が何度も米軍に遺体収容の申し入れをして許可を得、住民達が遺体を収集し、米軍からセメントと古寝台の提供を受けて造営したのが魂魄の塔だということだそうです。ここに遺骨が納められたのは、米軍の艦砲射撃や火炎放射器、機関銃、ガス弾などで亡くなった人達や、壕の中にガソリンを流し込まれて窒息死した人達、集団自決した人達、日本兵に虐殺された人達(米軍に降伏しようとした住民が背後から日本兵に撃たれたり、斬首されたりしたそうです)だということです。1974年に国立沖縄戦没者墓苑がつくられてからはそちらに遺骨が移されましたが、それでも沖縄で最も早く遺骨が納められた場所であり、今も家族を弔う人達がここに多く訪れるそうです。私も、今まで見た中で、最も胸を打つ塔だと思いました。
近くの浜辺に移動して、ガイドの金城さんからまとめの言葉を聞きました。この浜辺も、多くの人が逃げてきて、近くに集団自決をした洞穴もあるそうです。金城さんは、「戦争とは人間が人間でなくなくなること」であり、そのことを意識しながら1日目に見た基地のことを思い出してほしいとおっしゃいました。軍事基地とは戦争をするために使うものであり、この沖縄の基地からアフガニスタンやイラクに兵士が派遣されていることに目を向けてほしい、そして、医療人として、人間としてどう生きるのかを考え、憲法9条や平和の大切さを考えてほしいとおっしゃっていました。
感想のまとめ
帰りのバスの中では、参加者が感想を発言しました。私は、今ネット上で改憲について議論している人達がたくさんいるけれど、みんな沖縄を見てから議論してほしいと思うと発言しました。
沖縄では戦争の醜さや悲惨さを知ると同時に、現在基地に脅かされている人々の生活を知ることができ、未来において戦争に巻き込まれるかもしれない私達の危機を知ることができます。それでも軍隊を持ちたいと言える人達がいるならば、一体何を理由にそう言えるのだろうかと不思議に思います。
沖縄を知れば知るほど、あらゆる戦争を起こしてはならないのだという思いが強くなります。是非多くの人に、観光では見られない沖縄を体験していただきたいと思います。
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